実定法とは?
法律の世界には、「実定法」という少し聞き慣れない言葉があります。国会で制定される法律をはじめ、私たちの社会で実際に効力を持つ法は、すべて「実定法」に含まれます。
「実定法(じっていほう)」とは、国家機関による制定や社会の慣習など、人間の行為に基づいて成立し、現実の社会で通用している法のことを指します。
ただ、この「実定法」を本当の意味で理解するには、少し遠回りが必要です。というのも、実定法が何であるかを一言で説明するよりも、その対義語である「自然法(しぜんほう)」が何であるかを先に知っておいたほうが、はるかに理解が早いからです。基礎法学ではこの二つが対をなす概念として登場しますが、実定法は自然法という「鏡」に映してはじめて、その輪郭がくっきり見えてくると言ってもいいかもしれません。というわけで、ここからは先に自然法について掘り下げてみます。
自然法は存在するのか? 誰が決めるのか?
結論から言えば、自然法は具体的な条文を持った法律の本として存在するわけではありません。基礎法学において、自然法とは「人間の作った法律の上にあり、その正・不正を識別するための概念」であり、「神の意志、人間の理性や本性などに基づいて」存在するとされています。つまり、特定の権力者や誰か一人が「これが自然法だ」と勝手に決めるものではなく、時代や国を超えて人間が普遍的に正しいと感じる、いわば絶対的な基準こそが自然法なのです。
自然法はどうやって使うのか?
誰も条文を書いていない自然法を、私たちはどうやって現実社会で「使う」のでしょうか。その最大の使い道は、国家が作った現実のルールを評価・批判するための「絶対的な物差し」として使うことです。
国家が定めた手続きさえ踏んでいれば、どれほど残酷で理不尽な内容であっても法律としては成立してしまいます(この立場を法実証主義と呼び、「悪法もまた法なり」と主張されます)。しかし自然法論の立場からは、「その法律は人間の理性や本性に反しているから無効であり、人々には従う義務がない」と反論することができます。これが法学における「悪法は法にあらず(悪法非法)」という有名な考え方です。
自然法の「典型例」を先に押さえておく
自然法という概念をイメージしやすくするために、よく挙げられる典型例をいくつか見ておきましょう。たとえば「人を殺してはならない」「他人の物を盗んではならない」「合意(契約)は守られるべきである」といった規範は、特定の国の法律が存在しなくても、時代や文化を超えて「当然そうあるべきだ」と多くの人が感じる規範だとされています。これらは現実の社会とそれほど大きく矛盾することなく、比較的すんなり受け入れられる例です。
ところが、自然法の代表例として必ずと言っていいほど挙げられるものの中に、一つだけ毛色の違う例があります。それが「人は生まれながらに平等である」という考え方です。この例だけは、他の例と違って、現実の世界を見渡した瞬間に強い違和感を覚えさせます。だからこそ、自然法を語るうえであえて掘り下げる価値がある例だとも言えます。
現実の「不平等」と自然法の「平等」の矛盾
「人は生まれながらに平等である」というのは自然法の代表的な考え方ですが、現実の世界を見渡せば、人は決して平等ではありません。生まれた環境や財力によって、スタート地点から圧倒的な格差が存在します。「殺すな」「盗むな」といった規範は現実の社会規範ともおおむね一致しているのに対し、「平等」だけは現実社会の姿とあからさまに食い違っている――だからこそ、この一点にはどうしても疑問が生まれます。財産・才能・家庭環境の差は歴然として存在するのに、自然法の言う「平等」は、しょせん空虚なきれいごとにすぎないのではないか。それは「悪」に対抗する力など、本当に持っているのでしょうか。
この問いは、次の三つの層に分けて考えると、かなりすっきり整理できます。
① 法学でいう「平等」は、財産の平等ではなく「資格の平等」
自然法や現代法が主張する「生まれながらの平等」とは、誰もが同じ額のお金や同じ才能を持って生まれてくる、という意味ではありません。基礎法学ではこれが、私法上の「権利能力平等の原則」という形で表れます。この原則が言っているのは、人はこの世に生まれ落ちた瞬間から、無条件かつ平等に「人」としての法律上の資格――権利を持ち、義務を負うことができる資格――を得る、ということです。大富豪の子であっても、住む場所を持たない人の子であっても、法の目から見れば、その生命権や身体的自由は等価です。「金持ちの命は重く、そうでない人の命は軽い」というルールは、法として成り立ってはならないのです。つまり自然法の言う「平等」とは、現実の資源を均等に分け直すことではなく、人格の尊厳と基本的人権における底線の平等を意味しています。
② 自然法は歴史の中で、実際に「悪」と戦う武器になってきた
「対抗できるはずがない、世界とはそういうものだ」と思うかもしれません。しかし人類の歴史を振り返ると、まさにこの自然法を武器として持ち出すことで、人々はもっとも恐ろしい「悪」を打ち倒してきました。
数百年前のヨーロッパでは、貧富の差どころか、法律そのものが不平等でした。貴族には生まれながらの特権があり、平民は生まれながらに一段低い身分とされ、奴隷制すら存在していました。「世界とはそういうものだ」という鉄壁の現実を前に、人々はどう抗ったのか。
ここで登場するのが、イギリスのロックやフランスのルソーといった思想家たちです。彼らは自然法にもとづく「自然権」や「人民主権」という思想を打ち出し、あらゆる人間は生まれながらに不可侵の権利を持つと主張しました。この思想はやがて人々を目覚めさせる松明となり、アメリカ独立宣言には「すべての人は平等に造られている」という一節として直接書き込まれ、生命・自由・幸福の追求という不可侵の自然権が高らかに宣言されました。同じ流れの中で、フランス人権宣言も「人間の自由と平等」を原則として掲げています。
つまり、支配者が国家の仕組みを使って「不平等」を合法化しようとしたとき、人々はまさに自然法を「判定基準」として持ち出し、旧来の身分制の法律を「悪法」だと指弾し、最終的にそれを覆してきたのです。自然法は、単なる哲学的な理想論にとどまらず、実際に現実の制度を動かし、書き換えてきた原動力でもありました。
③ 現代でも、自然法は「悪法」を見抜くための判定基準として機能する
では、今この瞬間の社会において、自然法はどう役立つのでしょうか。自然法の役割とは、人間がつくる法律に対して、決して越えてはならない一本の「レッドライン」を引くことです。
現実の世界には確かに貧富の差があります。しかし、もし仮にどこかの国が、ある日突然「預金残高が10万円に満たない者は、警察に助けを求める権利を持たない」とか「特定の民族に属する者は、強制労働に従事しなければならない」といった法律を制定したとしたら――私たちはそれを、何をもって「邪悪だ」と証明すればよいのでしょうか。
そこで物差しとなるのが、自然法です。自然法は人間の理性と本性にもとづき、誰もが基本的な生存の権利と平等な資格を持つと主張します。その法律がたとえ国家の定めた手続きを完全に踏んで成立していたとしても、自然法という底線を著しく踏み越えているのであれば、それは「悪法」だということになります。自然法論の立場からいえば、「悪法は法にあらず(悪法非法)」であり、人々にはそれに従う義務はないのです。
まとめ
ここであらためて、実定法とは
自然法についてここまで見てきたところで、あらためて「実定法」に戻ってみましょう。
こうして自然法を先に見たあとだと、実定法の輪郭がよりはっきりします。実定法は、あくまで人間が手続きを踏んで「つくった」ものにすぎません。だからこそ、それがどれほど理不尽な内容であっても、手続きさえ踏めば成立してしまうという弱さを持っています。そしてその弱さを補い、実定法を外側から評価・監視する役割を担っているのが、ここまで見てきた自然法なのです。
現実の社会には残酷な不平等や不条理が存在しており、世界は現にそのように回っています。だからこそ、国家が制定する「実定法」が強者の論理だけで暴走しないよう、監視する必要があるのです。自然法は「いま世界がどれほど不平等か」を描写するものではなく、「法律は最低限、人間としてどうあるべきか」を示す理想の北極星として機能しています。
おまけ:「実体法」というよく似た言葉について
ここまで読んでくださった方の中には、「実定法」と似た響きの「実体法(じったいほう)」という言葉を耳にしたことがある方もいるかもしれません。この二つはまったく別の分類軸にある言葉なので、簡単に触れておきます。
「実体法」とは、「法が何を規定しているか(内容)」に注目した分類です。権利や義務の実体――権利義務の発生・変更・消滅の要件や範囲など――を規定している法を指し、民法や刑法などがこれに当たります。対義語は、権利を行使するための裁判の手続きなどを定める「手続法」です。
つまり、実体法/手続法は「法律の実務的な中身」を分類する言葉であるのに対し、実定法/自然法の対立は「法律の正しさの根拠はどこにあるのか」という、法学のもっと根源的な問いを分類する言葉だといえます。